20211123  悲しい気分に浸る

生理前っぽい。いつもより情緒が荒れている。

生理前は無性にイライラするというか、イライラするものを探しに行ってしまうというか。何を見ても裏になにかあるんじゃないかと疑ってしまう。いつもそういう傾向はあるけど、生理前は酷くなる。

基本的に人間を信用してない。しないようにしてる。だからいつも粗探しして、油断しないようにしてる。そのせいで生きづらいんだけど。

 

この前のカウンセリングで色々発見があった。

・警戒心が異様に強い→集中するのが怖い→作業中のぐるぐる思考がやめられない

・生い立ちのこと 忘れたい⇔油断したくないから嫌な思い出忘れたくない 矛盾

・まだ感情を吐き出すフェーズが完了してない

 弱い自分が許せない 不安になった時に感情を抑え込もうとしがち

→①0/100 白黒思考にハマりがち。完全に弱音を吐かなくなるんじゃなくて段階的に移行していければよい

②気分の落ち込みがあった時に我慢しない 在宅なので泣きながらでも仕事はできる

・自分の感情が非合理的、効率が悪いことに苛立ちを覚える

他人はコントロールできないのに自分がコントロールできなかったら何もコントロールできないことになる→不安

・ぐるぐる思考が始まったり気分が荒れてきたら、自分を冷静に観察するようにする

いつものめりこんでしまうから苦しくなる

・自己否定感 今の自分というより、過去の自分が許せない

・期待しない

 

悲しい気分に浸りたい時がある。そういう時は日記を書いたり、このブログを書きに来る。無意識に抑えつけてる節があったので、今後は気が付いたらやるようにする。

感傷的な気分に浸ることへの嫌悪感があって、しないようにしてた。

昔から人に弱みを見せたくないから表では愚痴を一切言わない方だったけど、ツイッター依存を経験してより嫌になった。

ツイッターは今まで抑えつけてた感情を言語化するのに役立ったけど、ある時からずっとそれしててもしょうがないなって思うようになった。

自分の悲しみを吐き出す作業が、いつしかいいね稼ぎのかまってちゃんムーブになる。

個人的な背景を社会の偏見のせいや不平等に還元して嘆き悲しむツイートは、より反応されやすくなる。無意識にそういうノリに影響されて、思考も悲劇のヒロイン症候群気味になっていく。

陰キャ同士で傷の舐め合いしてても成長はしない。自分が成長しなければ同じところをずっとぐるぐる回ってるだけ。

嫌なことがあった時、ストレスを感じる時にツイッターで病みツイして構ってもらえたらそれで満足してしまうから、具体的な改善策や行動を起こさなくなる。

他責思考と被害者意識だけ強化されて、不幸を嘆くわりに改善するための努力や行動はせずにせっせとツイッターで病みツイばかりして…未熟な自分には向き合わずに世間の風潮や不公平を嘆いてばかりで…そういう人間だった。

だから、昔の自分を見てる気分になるツイッターのカスは嫌いだ。

だから感情に振り回されて具体的な行動をおろそかにするのはやめようって気持ちが強くなってたんだけど、今ならあの頃よりはうまく感情を向き合える気がする。

 

「今は家を出たから安全なのでは?」という話になったので考えてみたけど、今も安全ではないと感じる。

生家にいたころよりは格段に安全で、快適だ。でも生きてる限り安全ではない。

今日生活できてるからって、明日もそうとは限らない。仕事が不安定なのもあって余計にそう思う。今安全だと思わない方がいい。安心しない方がいい。

「私は大丈夫」だとか安心した瞬間に大丈夫ではなくなる気がする。

家族以外にも、信じられないほど頭と性格が悪くて対話が成立しないタイプの人間はいる。そういう人間はわりといる。利用しようとしていい顔で近づいてくる人間も。

人間の善意なんか信じてたら見抜けない。疑いすぎるくらいの方が損失は少なくて済む。

仕事ももっとちゃんとできるようになって実績を積みたい。それだけが安全に繋がる。 

誰にも頼れない 誰も助けてはくれないという感覚が強い。

子供の頃からそう感じてたのは不幸だったけど、20歳以降はこれが正しいんじゃないだろうか。

 

とはいえ、家族に頼れる人は大人になっても躓いた時に支えてもらえるんだよなぁ…。

具体的に支援があるかどうかより、自分が困った時に家族は支えてくれるだろうという確信があるのが大きい。

幼少期に無条件の愛情を与えられた人間は、本当に追い込まれた時でも絶対に味方してくれる人がいるという感覚があるのかもしれない。辛い時に親の顔とか思い出すらしい。想像できないけども。

私の親は私が本当に苦しんでても悲しみはしない。私が仮になにかの精神疾患の診断が付いても、心から心配はしない。嘲笑うだけ。陰でバカにして盛り上がったり。

わたしというアクセサリーの社会的価値が下がれば不機嫌になってみせることでコントロールしようとしたり、心配しているから説教というていでモラハラまがいの嫌味を言ってきたりはする。わたし個人の人生を心配しているわけではない。すべては自分の体面と自尊心を保つため。

自分の子供になんでそういう態度取れたのか、時が経って冷静に見れるようになればなるほど理解不能ですが…世間の人間って私の親よりは人間味あるっぽい。

でもないならないなりにやるしかない。ないものねだりしてしまう弱い自分が嫌だ。

 

ずっと穴を埋めなきゃと思っている。幼少期に与えられなかった愛情の埋め合わせ。

薄々この穴は埋められないんじゃないかと思い始めてもいる。

創作は癒しになるけど、穴は埋まらない。むしろ穴が埋まらないからネタが尽きない。

この穴と、歪な自分とうまいこと付き合っていくしかないのかもしれない。

でも歪な自分を見るとそれを作った両親のことを考えてしまうから、他の誰かになれないことを受け入れたくないんだよなぁ。

久しぶりに

1時間でばーっと吐き出す。

 

3月からいい調子だったのが、ここ数日気分の落ち込みが目立つようになった。マイナス思考の反芻がやめられなくて、仕事中に作業してられなくなることがある。今もしんどくなったので一旦中断してブログを書いてる。

コーピングは前より上手くなった。先週は仕事の疲れが溜まってたので猫触ったり、好きな海外ドラマを見たりしてうまく気分を上げれた。

でも仕事で単純作業してるとぐるぐる思考がやめられなくなって苦しい。不快だ。疲れる…。ユーチューブとか、人が喋ってる動画を流してたらそっちに注意が行くから反芻はやめれるけど、仕事のスピードが落ちる…。それに、喋ってる内容とかついてるコメントにイライラしてまた不快になることもある。

単純に体が疲れてるから、仕事で家に引きこもってるので気が塞いでるからかもしれない。

そもそもなにかひとつの地雷があるというより、好きなもの以外はだいたい嫌いだったの忘れてた。他人が嫌い。人間が嫌い。人間の中で生きるのが苦痛だ。

 

自分に未来があるのか自信がなくなる。そろそろ死ぬんじゃないだろうか。それならそれでいいんじゃないかと思ってしまって、疲れた時に「生きるのめんどくさいなあ」と思うのが復活してしまった。

空虚感がある。今の自分が頑張ってなにか成し遂げたところでだからなんなんだろう。

創作は没頭する瞬間が楽しいからやってる。作品がいつまでも残るとは思ってない。作品に没頭してる瞬間が楽しければそれでいい。他人からの評価なんかころころ変わる。他人の興味は移り変わる。あてにすべきじゃない。それだけのために作るのはむなしい。

 

弱い自分への苛立ちもある。

これは今までの、過去の失敗を思い出して自責思考に走るのとはまたちょっと違う。

誰にも頼れないという自負が強いから、誰にも頼れないのにそんな泣き言ばかり言っててどうすんだという気持ちが強い。

めそめそしてる余裕が今の自分にあるのか。誰も信用できないし、いざとなった時に誰も頼れないから、もっとちゃんとしたいし生きていくために必要なスキルを覚えるべきなのに、泣いてる暇あるのか?

こうやってマイナス思考をやめられなくて手が止まって能率が落ちるのが嫌でしょうがない。

泣き言ばっかり言って他人のせいにして泣きわめいて、そのくせ努力はなんもしてない他人もダサくて大嫌い。少し前の自分を見てるようでイラつく。そうやって人のせいにして被害者ぶって泣いて、他人が施してくれるのを期待するだけだからいつまでも不幸なんやろが。

 

人間不信と空虚感の根底に幼少期の親との関係性があるのがわかっていて、でも過去のことは今の自分にどうしようもないからそんなこと言われても困る…てなってる。

心の中の原風景に「安心して自分が存在できる家庭」がない。安心感が持てたのは家を出て一人で暮らすようになってから。

自分を見守ってくれる存在が欲しいと思うけどいない。でも創作はわたしを守ってくれてる。親のように自分を受け入れて見守ってくれる存在が欲しいけども、わたしは人間にそれを期待できるほど人間を信用できない。

空虚感がある。

今の自分がなにをしても、幼少期にもらえなかった両親からの愛情は取り戻せない。

心のどこかで常に幼少期の埋め合わせをしようとしているんだろうけど、なにをしたらそこが補完されるのかわからない。

ないものねだりだと思う。だからこういうことを考えて落ち込む自分にも嫌気がさす。

与えられた環境が不平等なのは当たり前じゃんかと思う。家族に恵まれなかった人もいれば才能に恵まれなかった人もいるんだから、適材適所で自分の勝負できるところで勝負して食ってくしかないやんか。

いつまで親に愛されなかったことを引きずって生きていくんやろ、早く忘れたい。しょうもない。

 

絶妙に嫌な夢を見るのも落ち込みの原因になってるかも。だいたい100人以上くらいの集団の中にいて、そこでキョロ充して浮いてる夢を見る。学生時代のクラスメイトとかが出てくる。出てこなくていい。過去のことは思い出したくもない。あとは家族と争ってる夢とか。

そんな夢ばっかり見るのでなんか損した気になる。寝るのは好きだし疲れも取れるけど、夢は見なくていいのに。

 

色々思い出したり考えてしまうのが不快でやめたいのにずっと思考がぐるぐるしてしまう。しんどい。忘れたいから作業に没頭しようと思うんだけど、考えてしまって疲れる。仕事内容自体じゃなくてマイナス思考の反芻で疲れてるんでないか??

 

最近はインナーチャイルドを癒すことについてもっと勉強する必要性を感じている。

でも子供時代の自分嫌い…クソガキ…気持ち悪い…。タイムスリップできたら殺してやる。受容とは程遠いなぁ。

 

とりあえず仕事落ち着くまではだましだましなんとかするしかないわ。

ネット依存対策 備忘録

効果のあったもの

・外に出る

スマホを切る

 

危ない時

・作業終わりで疲れてる&興奮しているとき

 

作業に集中する時間を増やすことである程度改善しつつあるが、集中が切れた時の気分転換のレパートリーがないのでなんとなくネットしてしまう

気分転換を増やしてみても(読書量を増やすなど)その分ネットが減ってる感じがあまりしない。読書もネットもするようになるだけのような…。

 

対策

・ネット以外の予定をミッチミチに入れて物理的にできなくする?

→入れた予定を強制的にこなす仕組み作り。やろうと思ってるだけだとすぐ忘れる。

・気分転換の種類を増やす

→映画を見る時間を確保するのを目標にする? 今週はむりかも

→読む本のジャンルを増やす

 

とりあえず今週は

スマホ切る(スクリーンタイム平均1h以内)

②pcアクセス制限

③読書量を増やす

今週読みたい本

 

 

 

 

 

 

 

最近の過ごし方など

忙しく過ごしてて更新が開いた。最近のこととか諸々の進捗など。

今日は仕事頑張って疲れたから、精神も少し疲れてる。温かい飲み物を入れて、好きな曲聞いてまったりブログ書き始めたら泣きそうになってきた。

 

ネット依存対策の進捗

最近はワーキングスペースを借りて、無理やり外に出る機会を作ってる。

外にいると物理的にネットする時間が減る。

仕事の効率も上がって完全在宅ワークだった時より生活にハリが出て、かなりいい感じ。

YouTubeを見すぎちゃうのとエゴサしてしまうのはまだ治ってない。特にエゴサは毎日してしまうな…。YouTubeにコメント書くのとぐちったーはしなくなった。これでかなりストレスが減ったかも。

今後は今の生活を続けて慣れて、徐々にネットへの依存度を下げていきたい。

課題は家での過ごし方、特に疲れた時に延々スマホ触るのとエゴサがやめれなくなってしまうのが課題かも。

依存の根本にありそうな社交不安については、長くなったので別記事にした。

 

ACについて

回復を焦る気持ちと、親を憎むことへの罪責感を最近はよく感じる。

自分自身が幸せな家庭への憧れが強いからなのか、「親に感謝しないといけない、和解して許さないといけない」という価値観を内面化してしまって苦しくなってる。

対話が成立する家庭ばっかりじゃないし、すべての親がこどもに無条件の愛情注げるわけじゃないし、家族だから味方とは限らないし…。

そういうことはわたしが自分で理解していればそれでいい。

「親を愛さないこどもはいない」とか本気で言ってる幸福な家庭で育った人に自分の考えを理解させようとか思ってない。

家族愛を美化する風潮が世間にあっても別にいい。そういうのを好きな人がいても否定しない。尊重したいと思う。

「世間にそういう風潮があるからわたしは苦しいんだ~」とか泣きわめいて他人や社会を攻撃するタイプの人間がとても嫌いだ。

 

問題は自分の中での内面化。そして絶縁後も残った自分の中の様々な感情をどう処理するかだと感じている。

わかりやすく虐待されてたらもっとストレートに憎めたとよく思う。日常的に殴られてたわけでも犯されてたわけでもないから、親が悪いと言い切って社会的に賛同されるとは思えない。でも自分の中では苦しかった。

関心も愛情もないのにぱっと見愛情のある優しい両親を演じるのが上手いので、外の人に言っても理解されないだろう。当事者の自分でさえ二十歳超えるまで違和感を言語化できなかった。

カウンセラーさんは職業上否定しないで聞いてくれるけど、立場上そう言ってくれてるだけだと思ってる。

出来の悪い娘が可愛くなかったけど、世間体と自分への言い訳のために愛してるふりだけは続けた。世間で言われる虐待のラインを超えないように配慮する小賢しさと、娘自体がどういう人間でなにを考えているかには微塵も興味がない冷淡さ。

20年も見てりゃ気付くわこっちもな。そういう内心が透けて見える両親を好きになれるはずもなく信用もできず。

親がAC気味でコミュニケーションが下手だったり、親の親にやられて嫌だったことを再演してんだろうなと思う部分もあった。わたしも子供だったから色々未熟だったりうまく感情表現できないこともあった。実際は双方に問題があったんだと思う。

それを理解した上でわたしがあの人達を一人の人間として評価した場合にも尊敬できないし反吐が出るほど嫌いだと思ってるのは、すべてを「問題児の娘のせい」にしようとしたから。

どっちが悪いかなんて言っても仕方がない問題でわたしが悪いと言われ続けてわたしは自分を守るために親が悪いと言い続けて、絶縁した後も心の中でそれが続いてる感じだ。

家族とか抜きにして対個人の関係として見るとしても、人間同士の関係の問題でどっちかだけが完全に悪いなんて現実的じゃないと思うけど。わたしだけが悪いことにしてめんどくさいことから逃げ続けて向きあってくれなかった両親が人として大嫌い。

自分の人格の歪な部分は家族との関係の中で生まれたものなのに、その事実を「親のせいでこういう人間になった」と表現すると誰かから「人のせいにするな」と責められるような気がして憎むことに罪悪感がある。

その誰かも親なんだけど…二言目には「人のせいにするな」と言われ続けたし。

親の言うことを真に受けてた時期も「愛されて育ったはずなのになんで自分はこんな仕上がりなのか」と期待に沿えないことへの自責感からの自己否定で苦しかったし、親を否定してもそんな自分に対して自己否定が始まってどちみち苦しいなぁ。

こういうこといつまで気にして悩むんだろうと思う。

生まれ育った環境のことを完全に忘れるのは無理なのはわかってるけど、いつまでも親ガチャ外れた不幸を嘆いてしまう自分も弱くて嫌で。

親に無条件で愛されたかった。ふりじゃなくて本当に優しくて愛情のある両親だったらよかったのに。そう思い込みたかったけど物心ついた時点から信用できてない人には騙されることすらできなかったなぁ。

そんなこと嘆いても仕方ないし、ないならないなりにやっていくしかないだろうと自分に言い聞かせている。

愛されて家族仲いい家庭で育った人間がいるらしいというのは知識として知ってるけど、伝説上の生き物みたいで現実感がない。うちみたいに張りぼてだけの家じゃなくて?世間へのアピールじゃなくて本気で家族が好きだとか大事とか言える感性が生きてる世界が違いすぎて理解できない。怖い。

親に愛されて育ったっぽい人が怖くて羨ましくて仕方がない。

毎日色々ぐるぐる考えてしまう。未だに悲しくて泣く。この感情をどう処理していくか考えてる。やっぱ創作しかないかなぁ。生きている上で救われない感情とか消化できないものを創作に落としこむとすごくいい感じになる。

 

しょうもない人間に構っていたくない。ノイズが邪魔。

しょうもない人間がたむろするような場にはもういたくない。

愚痴とか弱音とか自己憐憫を延々仲間内でループしてるだけで、自分の人生にプラスになる行動を一個もしてないじゃん。そんなんで人生好転するわけないわな。

これは去年までの自分に対して思うことでもある。少し前の自分に似ている奴は見ていて腹が立つものだ。

弱音や自己憐憫が必要な時期もあるけどわたしはもういいかな。今ツイッターでわちゃわちゃやってる人はまだ痛みを言語化して吐き出しまくることが必要な時期なんだろう。孤独な人間は思想にすがりたくなることもある。昔よりは多少は優しい目で見れてるかもしれない。

自分の人生に集中しなくちゃと最近とみに思う。今の自分の人生と、今やるべきことに集中したい。 

仕事と作品が好きだから、自分の弱さのせいで作品が不幸なことになってしまったら申し訳ないと思う。

人生のいろんな場面で、作品に生かされていて守られていると感じることが多かった。今も毎日思う。親は守ってくれなかったけど作品はわたしを守ってくれた。

 

今日はかなりポエミー度高いな。本ブログではこんな感傷的な文章恥ずかしくて出せないから、こっそり吐き出せる場所を作っておいてよかった。

 

 

対人不安

ネット依存の根本原因になってそうな社交不安についてだけど、長くなったので別記事にした。

これは進展あるのかないのかよくわからん。とりあえずやったこと

①本読み これと「人と接するのが怖い」の2冊は読んだ↓

いわゆる人見知りとかあがり症、知らない人に囲まれるのが苦手な人を対象にしているのでわたしのパターンとは違うかも…。知らない人は比較的平気。

親密度が上がる(より高度なコミュニケーションを要求される)場ほど苦痛を感じるのは回避性パーソナリティとかの分類になるんだろうか。

②外に出る機会を増やした 一日体験教室とか施設見学とかの一回きりで済む状況で人と接する機会を作るなど

 

集団に属するのが苦痛だし難しい。今は幸運にもほぼ一人で完結して仕事できる状況にあるけど、職場で嫌われず浮かない程度にうまく立ち回るスキルがないと人生の選択肢がぐっと減って難易度がハードモードになるんよなぁ。。。

 

課題①

外に出るようになっておおむね健康度が上がってよかったんだけど、昔感じた嫌な感情が前より生々しく蘇るようになってきたのがちょっときつい。

自分の見た目が嫌いなので、それで損した時のこととか言われたこととか色々思い出したりしてしまったり、今の自分の身だしなみとかメイクが変なんじゃないかとか気になってしまうことはある。

自信をつけるために身だしなみについてもっとちゃんと勉強しなおすのはありかもしれない。

でも人に疲れたら気が済むまでしばらく引きこもる生活に戻ればいいやという心の余裕がある。やろうと思えば完全ひきこもりでも食っていける今の生活がほんとありがたい。

 

課題②

対人スキルの純粋な低さ以上に、人間に対する警戒心、恐怖心が大きいのが問題かもしれない。

リラックスして人と接するということができない。嫌われたり見下されるのを異常に恐れているので、常に相手の顔色を窺って怯えている。また、いい人に見られることで攻撃されたり悪者にされるリスクを減らそうという心理があると思う。こういう過剰な外面のよさ、母親に似ていて不愉快。

 

人間恐怖と人間不信/人間嫌いはまた別問題というのもある。自分は恐怖も強いけどそれ以上に人間嫌いがひどい。対人スキルは行動の問題だから訓練で伸びる余地があるかも。でも根本の人間嫌いは内心の問題なので治らない気がする。

そもそも他の類人猿より攻撃性が高く嘘つきだから他を滅ぼして繁栄したホモサピエンスに好きになれる要素なくね?というスケール感で人間嫌い。ほっといたらすぐ民族浄化とかアパルトヘイトとか言い出すしまじで性格悪いとおもう人類。そういう人類のダメなところって自分にも自分の周りにいる人間にもしっかり出てるしね。もう生物として嫌い。ゴキブリが嫌いなのと同じ。

これは変に直そうとせずに、人間嫌いなまま生活の不快度を抑える、幸福度を上げる工夫する方向で考えた方が現実的かも。

 

ちなみに外に出るようになって改めて家で一人でいる時間最高だな~と思った。気分転換とかいい運動になるとか外に出るのもいいんだけど、やっぱり家で一人でいれる時間が好き。一人でというのがポイント。

一人暮らしするまで日記に「24時間365日不安で落ち着かない」と書いてたくらい家庭に居場所がなかったので、今の家は安全な場所なんだ、警戒を解いても大丈夫な場所なんだとしみじみ思えるのが本当にいい。

毎晩のように同じような夢を見る。知らない家でなぜか親と同居してて、「ストレスたまるからここから引っ越して一人に戻りたい」と思っている夢で、目が覚めると一人なのでとっさに引っ越す手間省けてよかった~と思う。

家族に責められて嗤われて、必死で怒鳴って言い返してる夢もよく見る。殺したいんだけど、夢の中の体ってうまく殴ったりできなくていまだに勝った記憶がない。たまに本当に怒鳴ってて起きる。

こういうこと言ってもまず理解されないから、作品と治療の場以外では何も言わない。

こうやって書いてると一人なのが一番安全で安心できるから人と関わりたくないんだな~と改めて思う…。人といてもリラックスできない。ただただ怖いだけ。

生家にいたころは常に警戒して怯えて自分を守るので精一杯だったので、全てにおいて安心感を一番重要視している感がある。

 

とりあえず今後は

・仕事と並行しつつ、できる時に人と関わって自分の成長につながりそうな機会を設けていく。単発バイトする時間の余裕作りたい。

・関連分野の情報収集 主に本読み

社交不安とか精神医療以外にも、哲学書とかエッセイ見てもいいかも。

久々に中島義道の本読もうかなぁ。中島義道好き。

20211919 対策 社交不安症

ネット依存と社交不安症治療を並行してやっていきたい。

次回のカウンセリングまでにやること

 

☆対人恐怖症について

これはやることがはっきりしてる。本業で関わってる人に迷惑をかけないようにしっかりするのと、

①単発バイトに行く

②習い事の1日体験などに参加してみる

現状はまず人と接する機会が無に等しいので、人と関わる機会を作り、課題を明確にするところから。

友達関係、同僚など定期的に会う関係が苦手。集団の中に所属することができない。個人的な関係がしんどい。

逆に知らない人とその場限りの付き合いならそんなに気にならなかったりする。

なのでまずは単発、その場限りで完結する場で人と接することに慣れる。

バイト代は猫を飼うための猫貯金に回せるので一石二鳥。

慣れてきたらいずれは

③気になるジャンルの資格取得

④定期の習い事(3か月など期間限定でもいい)

⑤ボランティア活動(猫保護活動)

もしたいと思っている。

まずは単発の場から慣れて長い期間の人間関係に対応できるようになりたい。

社会経験の乏しさも課題なので、単発バイトでもいいので社会経験を積みたい。このまま家で作品作ってるだけだと経験からくるインプットが足りない。本やネットからの情報収集も大切だけど、人間関係の機微は実際に見ないと学べない部分があると感じる。

猫保護活動は、5年後までに保護猫を引き取るのが目標なのでそれに役立つかなと。

 

次回のカウンセリングまでに

①料理教室1日体験

②短期バイト計3回

③猫シェルター見学

に行く。

④あとこの2冊を読んでおきたい。

 

前読んでたPTSDの本は読み終わった。共依存の方はほぼ読み終わった。

事項でネット依存対策についてまとめ。

 

 

 

親の呪縛 20210919

ネット依存が中々治らない。一人での治療に限界を感じたので、カウンセリングを再開した。

ネットでネット依存治療について調べるのも変なんだけど、ググってもこれという治療法が見つからない。

 

これまでの対処療法的なやり方で解決しなかったのは、根本原因に向き合ってこなかったからかもしれない。ネットに限らず依存の根本原因は孤独感だろう。

かなり思い当たる節がある。小学生でネットに出会ってからずっと依存し続けているのでかなり根深い。

孤独な学生時代をやり過ごすために2ch、ニコ動、まとめサイトツイッターYouTube…と様々なサイトに依存してきた。

学校に友達はいないし、バイト先でも浮いてるし、一番居場所がないのは家庭だった。

現実がしんどすぎてネットの情報で気を紛らわせて耐えてきた。

ネット依存の根本には対人恐怖/人間不信という問題があり、そこを解決しなければネットをやめれてもまた別のものに依存する可能性が高い。

そこで今までのネット依存対策と並行して、対人恐怖症的な部分も治療していくことにした。

 

ネットに繋がってないと、そわそわして落ち着かない時がある。反対に作業に集中できてる時は快適で幸福感があってずっとこうしてたいと思うんだけど、どこかで油断してまただらだらYouTube見てしまったりする。

ネットすら絶ってしまうと社会とのつながりが完全になくなってしまうという不安感があるのだろう。

「リアルで誰とも関わらなくても一人で生きていける」と思っていたけど、ネットでさみしさを埋めていたから、「ネットに依存してれば一人でも生きていける」というのが現実だったみたい。

今のままではネット依存をやめられない。リアルで人と関わる必要性を感じる。

 

それに、人との関わりがないまま5年、10年経った時に幼いままの中年になっているのが怖い…。

自分の社会経験のなさが不安だ。今も実年齢に対して精神年齢が幼い方だろう。対人経験が少ない故に考え方や人とのかかわり方が極端。そういう中高年をインターネットで見てきたから、ああなりたくない…というのもある。

 

変わりたいという欲求が強い。これはカウンセラーさんにも度々指摘されていることだけど、自己否定感が強いんだと思う。

治したいところ、矯正したい部分が次々思いついて、あれもこれも直さないといけないなと思っている。成長しようとしているのはよいことだと思う。

でも根本的には「あの親のこどもな自分」を受け入れられないという思いがあるのも確か。あの親のこどもな自分を受け入れられないし、親も自分を受け入れてくれなかった。

今の自分の認知の歪み、同居してた時の病み具合(一人暮らし始めた途端回復し始めた)から考えて、家族の存在が自分に悪影響だったのは否定しようがない事実だろう。成長を阻害する存在だった。少しの成長の芽が出ても嘲笑や冷笑で潰された。

こういうことを認めるのもしんどい。親からも二言目には「人のせいにするな」と言われてきたし、親ガチャ外れた話は甘えだと思われそうだから他人にも言わない。いまだに憎むことに後ろめたさがある。

あの家庭で作られた歪んだ認知が今もあるから、それで困るたび家族のことを思い出してしんどくなる。

社交不安症の根本には人間不信があり、人間不信の根本は最初の人間関係である親への信頼が全くないことにある。信頼がないというか、不信感と軽蔑と敵意と恐怖心と…ゼロ超えてマイナスの感情しかない。

だから対人恐怖症的な部分を治したい。克服すれば昔のことを思い出してもつらくならないかもしれない。

絶縁した後のモヤモヤの処理が長期戦になるであろうことを覚悟してから、少し余裕が持ててきた。今考えてること、これから取り組むことも創作に活きるだろうなという手ごたえがある。